歴史ブログ

日々のことを3分で読めるブログで書きます。

日本と台湾の歴史

先日、台湾総統選挙で与党の蔡英文さんが勝利したというニュースがありました。その時ふと近年の日韓関係のこじれと比べて、日台関係がなんとも良好に見えることがすごく不思議に思いました。本日は日本と台湾の関係について書きたいと思います。

統治時代以前

16世紀頃には倭寇が進出の拠点としていたり、当時日本に伝来された鉄砲やキリスト教の経由地として日本と台湾は関係があったとも言われています。

日本統治時代

日清戦争の勝利後、下関条約により清朝から割譲された台湾は、1895年から1945年までの50年間、大日本帝国の統治下にありました。韓国併合が1910年なのでその15年前に既に台湾は日本の一部になっていたんですね。日本に統治されてから現地人による抗日的な動きは何度か起こっていたようですが、日本のポツダム宣言受諾により台湾が中華民国に返還されるまでの間統治は続きました。
日本統治時代の評価は功罪両面あるようです。

現代

1945年時点では大陸にあった中華民国の一部だった台湾ですが、その後、国内での国共内戦で大陸から島に追われ中華民国政府として現在の台湾に存在しています。日本とは1952年(昭和27年)に日華平和条約が締結され国交が回復していますが、その20年後1972年(昭和47年)に日本が中華人民共和国日中共同声明を締結し国交を回復したことにより、日華間の国交はなくなり現在も断絶状態です。ただ、台北にある日本台湾交流協会では、歴代会長に財界の重鎮、理事には大使経験者が名を連ね実質的な大使館・領事館の役割を果たし外交関係を維持している状況のようです。

日台関係と日韓関係なぜ違う?

2020年1月時点では、普通の日本国民には日台間系は良好、日韓関係は良くないと見えているのではないでしょうか。その一因を両国関係の歴史の違いから考えてみます。
明治以降、日本は両国を植民地化し統治していましたが、統治期間は台湾が50年、韓国が34年で台湾の方が長ったのです。統治期間だけをみると台湾の方が植民地解放後の反発も大きくなったのではとも考えられるのですが、実際は台湾からの反発より韓国側の方がかなり強く現れているのではないでしょうか。(少なくともそのように見えますよね)
その背景として、一つには当然両国への植民地政策の違いがあると思います。台湾に対しては、現地の発展に寄与するという面もうまく機能できていて、抗日的な動きはあったものの、比較的穏やかな解決が図れたのではないでしょうか。一方韓国に対しては併合期間中、日本人による搾取が横行していたという話もありますし、海外からも韓国植民地政策の酷さは報告されていますし、植民地政策の悪い側面がかなり強かったと思われます。
韓国とな歴史については、また別の機会に書けるように勉強しておきたいと思います。

司法制度(裁判)の歴史

カルロス・ゴーン日産自動車会長がレバノンに逃亡し、そこで日本の司法制度の批判をしました。彼の密出国は認められるものではないと思いますが、日本の司法制度に課題があるということはニュースでもよく取り上げられています。今回はその司法制度について書きたいと思います。

近代以前

原始の時代では神を崇める慣習から占いや呪術による裁き、古代から中世では領主等が裁判官となり、近世では武士が裁判を取り仕切り奉行所で裁きが行われていました。そこから見えてくるのは、裁きをするのはあくまで支配者であったということです。

近代から終戦

当時は天皇を中心とした国家を進めているので、司法制度も天皇の名の下で行われていました。菊のご紋(天皇家の紋章)の威を借りた判事や警察官が拷問当然の裁判を進めることもあったようです。そこは近代以前と同じく支配者が裁くという仕組みになっていたようです。
そのような中、この時代に陪審員制があったということは書いておきたいと思います。1928年(昭和3年)から1943年(昭和18年)までの15年間、直接国税3円以上を納めている男性などの要件や陪審の評決が裁判官を拘束しない制限はありましたが、国民が司法に関わることはできたようです。

現代

1946年(昭和21年)に日本国憲法が公布され、天皇主権から国民主権に変わりました。
司法制度も主権者である国民の利益・権益を守るため、例えば最高裁判所裁判官の国民審査や裁判官弾劾の制度が取り入れられています。主権者である国民の利益を守るために様々な制度があるということです。
さて、見てきたように裁判はその時代の支配者・主権者が自己に利益をもたらす様にしてきた歴史的な特徴があると見ています。今は国民主権に基づく仕組みはできていても、司法制度に関わる人の中には前時代的な感覚が残っているのかもしれないのでしょうか。そのことがゴーン被告の批判につながるとも思えます。

イランと日本の友好の歴史

アメリカとイランが上手くいっていない状況のようですが、国内の報道ではよく「歴史的に友好関係がある」「親日国家」等のようにイランと日本の友好関係がでてきます。両国間にどのような歴史があったのでしょうか。今日はそれについて書きたいと思います。

外交関係の成立

イランと日本が正式に外交関係を成立したのは、1926年(昭和元年)です。当時のパフラヴィー朝(1935年にイランとなる)との間です。それ以前にははるか昔の奈良時代頃にはシルクロードを伝わって美術品等が日本にもたらされることはあったようですが、約90年前に正式に外交関係が出来ました。その後、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)からサンフランシスコ講和条約締結の1953年(昭和28年)までは国交は断絶状態だったようです。

友好関係のきっかけ

サンフランシスコ平和条約までは少なくとも友好関係を築いていたという状況ではなさそうですが、1953年の日章丸事件が友好関係の理由の一つだと云われています。日章丸事件については、百田尚樹氏の「海賊とよばれた男」でも触れられていますので多くの方がご存知だと思いますが、出光興産のタンカーによる石油輸入強行事件のことです。超簡単にご紹介すると、イランの石油を牛耳っていたイギリスに喧嘩を売り、イランと直接的な石油の取引の強行に成功したという事件です。
当時の日本は連合国軍(アメリカ・イギリス等)の占領下時代でもあり、占領者に歯向かうということにもなりそれがいかに難しいことだったかは想像に難くないと思います。用意周到な準備、法律の知識、国際世論を読む力等、全てのことが上手くいって始めて成功することだったのではないでしょうか。この事件ぎもたらした結果は、日本とイランの両国関係が良い方向に進むきっかけになったようです。

安倍(晋太郎)外交

関係者の評価は分かりませんが1980年代に外相を務められていた安倍晋太郎氏(安倍晋三首相の父)のイラン外交は興味深いものがあります。1979年のイランのアメリカ大使館人質事件を契機とした各国のイラン経済制裁に対しても、簡単に同調することなく独自路線を通す努力をされていたというものです。

これから

このように過去には民間、政府問わずイランとの良好な関係を構築する努力がされていたようです。今後もこういった努力が継続出来るようにしたいですね。

年賀状の歴史

今日は年賀状について書きたいと思います。
2020年年始の挨拶として年賀はがきを出された方はどれぐらいいらっしゃるのでしょうか?統計によると、2020年の年賀はがき発行枚数は23億5000万枚だそうです。国民一人あたりの単純平均では約19枚になります。自分に当てはめてみると少しずれた感じの枚数です。

書状を使った年始の挨拶

近隣、親戚などへの年始の挨拶は奈良時代頃から行われていたと言われているようですが、少し時代がたった平安時代には直接訪問できないものの、書状による年始の挨拶が始まっていたようです。もちろんこの時代はまだ貴族等の限られた人々のものです。
ちなみに一般の人々が新年の挨拶を行い始めたのは近世になってからと云われています。

郵便はがき、年賀はがきの利用

1871年明治4年)に郵便事業が始まりその2年後の1873年明治6年)に郵便はがきが始まりました。簡易に安価に出せるということで郵便はがきによる新年の挨拶が広まっていったようです。
郵便はがきが出だした頃、新年の挨拶は1月1日に行いたいために年末に郵便はがきが集中する事態になり、それを解消するために年賀はがきが採用されました。年賀はがきは1月1日に配達することを約束されたものとして人気が出ました。

年賀はがきの進歩

その後、年賀はがきは年賀状印刷(1970年代)、くじ付き年賀状(1980年代)、写真入り年賀状(2000年代)という進歩を遂げて現在に至っています。

これからの年賀状は?

私自身、今年は準備が間に合わず年賀状を出しませんでした。代わりにLINEで新年の挨拶をしました。郵便はがきや年賀はがきで新年の挨拶を始めてから既に130年近く経っています。より簡易により安価にという要請はいつの時代も変わりないようで、年賀状もその役割を次代にとりかわりつつあるのかもしれませんね。

私立大学の歴史

箱根駅伝への参加資格

2020年の箱根駅伝青山学院大学が優勝しましたが、そもそも、箱根駅伝に参加出るのは「関東学生陸上競技連盟に加盟している大学」となっていることは昨日のブログにかきました。つまり、東京都・神奈川県・千葉県・埼玉県・茨城県・栃木県・群馬県山梨県に本部を置く大学及び大学院が対象となるようです。
ちなみに今年の参加校は筑波大学以外は全て私立大学でした。優勝の青山学院大学、2位の東海大学、3位の国学院大学に絡めて、私立大学の歴史を少し見ていきたいと思います。

日本における私立大学の発展

明治以降の学校制度の大きな転換点は1947年の学校教育法の施行です。学校教育法施行前に設立された大学については旧制大学、施行後に設立された大学は新制大学となります。
学校教育法より前に私立大学を統制していた法令として、大学令(1918年公布)や私立学校令(1899年公布)、専門学校令(1903年公布)等があります。当時、大学は帝国大学に象徴されるように、近代化を進める国の政策に必要な人材を育てることを目的とした教育機関として発展していました。そのような中で、例えばキリスト教に基づく独自の教育理念をもつ私立学校は国の政策と相容れない部分があり、受け入れられにくい背景があったと思われます。私立学校が高等教育機関の大学として存続するためには、上記の法令によって発展する道を進むことになったようです。
その後、1947年の学校教育法により大学令で設置された私立大学や専門学校令で設置された専門学校等が新制の四年制大学として再編され今日に至っているようです。

各校(青学大東海大国学院大)の歴史

青山学院大学

大学設置は1949年で、旧制大学としては大学認可されていなかったようです。その背景として、青山学院がキリスト教教育重視の道を選んだことにより、大学としての認可をとれなかったという苦労の歴史があるようです。
今でこそセレブな家庭や有名芸能人が初等部から入学するような派手なイメージがある学校ですが、教育理念を重視するために苦労をした時代もあり、そんな経験もしている大学との評価もできるのではないでしょうか。

東海大学

1942年創立、旧制専門学校旧制大学を経て、新制大学として設置されました。設立当初は電気や航空の専門教育機関として生まれましたが、大学認可の段階では、文理融合の理念のもと教育を進める旨がうたわれているようです。新制大学として、医学部の設立等、総合大学として大規模化に成功した学校です。

国学院大学

1882年創立、専門学校令(1903年)、大学令(1918年)のタイミングでいち早く専門学校、旧制大学としての認可を取っており、私立大学でありながら当時の国の教育政策と方向性が重なる部分があったと推察されます。

今回は私立大学しかも箱根駅伝上位3校について簡単に歴史をみてみましたが、今後大学受験を考えていくような機会がある方は、各学校の設立経緯を知ることで、より深い大学選択をすることができるのではないでしょうか。

箱根駅伝の歴史

正月の風物詩ともいえる箱根駅伝。今年(2020年)は100周年を迎え開催数としても96回目になります。
箱根駅伝の歴史を、大会設立、1月2日・3日開催化、テレビ中継化の観点で振り返りたいと思います。

大会設立

第1回大会は1920年に開催されています。当時の陸上会で活躍されていた金栗四三さん等が、世界に通用するランナーを育成したいという思いから開催にこぎつけたという話があります。また、別の話としては、冬季の箱根周辺の観光振興を目的とした商業的な背景から開催が企画されたという話もあるようです。
第1回大会の参加校はたったの4校(早大・慶大・明大・東京高師(現筑波大))ということを考えると現在の大会の大成功はとても想像ができない程小さなスタートだったのがわかります。

1月2日・3日開催化

今では正月のイベントとしてすっかり定着している箱根駅伝ですが、開催日が1月2日と3日になったのは、大会開始から35年後の1955年第31回大会からです。前年までは1月の上旬で開催されていたようですが、大会開催時の交通渋滞問題を回避するため、比較的交通量の少ない正月三が日に移動させたということのようです。
当時、高度成長期に入っていき自動車の普及も進んでいった社会的な背景から大会も影響を受けたようです。

テレビ中継化

日本テレビが大会の全国生中継を開始したのは、1987年(第63回)からでした。これにより、それまでは関東地方の一駅伝大会に過ぎなかった箱根駅伝は一気に全国区になり、しかも陸上関係者だけではなくスポーツ観戦の一つとして大会が一般化されていきました。大会成功の大きなポイントになると思います。
当時、関西地方の少年だった私もテレビ中継される大会を見ていた記憶があります。地方の子供にとっても駅伝=箱根駅伝というものができていたと思います。

これから?

箱根駅伝に興味を持つとすぐに分かりますが、この大会には関東の大学しか参加していません。それは、大会が関東陸上競技連盟主催の一地方大会に過ぎないからです。(男子の?)大学駅伝には出雲駅伝、全国大学駅伝といった全国大会があるようですが、箱根駅伝はその全国大会の予選として位置づけられています。公式的にはそのような位置づけの大会ですが、人気と実力は既に他の大会を圧倒してしまっています。今後、大会を一層発展させて設立当初からの「世界に通用するランナーを育てる」という目的を遂げるために、大会の全国化なども検討の価値があるかもしれないと思います。

おせち料理の歴史

新年の最初にふさわしいお題として、おせち料理の歴史を選びました。

おせち料理の起源はいつ?

奈良時代の朝廷料理が起源という説があります。元々は、節会や節句のときに供された祝い料理のことを指していたようですが、徐々に最も重要な節会である正月を祝う料理のことをおせち料理と呼ぶようになったようです。

一般家庭への浸透はいつ頃?

今では各家庭でお正月に食べる料理として定着していますが、元々は朝廷料理です。一般家庭に浸透していったのは一体いつ頃で、どのような時代背景があったのでしょうか。
タイミングとしては江戸時代だという説があるようです。江戸時代に発達した庶民文化の一端として、おせち料理も発達したのかもしれないですね。

重箱で作るようになったのはいつ頃?

朝廷料理としては膳で出されていた(しかも盛っただけの非常にシンプルなもの)ものが、膳に加えて重箱でも提供されるようになったのが明治時代と言われています。
重箱での見た目の良さ、保存性の高さが良かったのかもしれないですね。
今ではすっかり重箱が定着していますが、膳から重箱に変わっていったのは戦後のことのようです。百貨店等の戦略があったとも言われていますので、商売上の流れとしてできあがったのでしょう。

これから?

今、おせち料理を手作りされている家庭はどれぐらいあるのでしょうか。私が子供のころ(30年ぐらい前)は母親が年末の数日をかけておせち料理を準備していました。当時はまだ多くの家庭でも同じ様な光景が見られたのではないでしょうか。
最近は実家でもおせち料理を手作りすることはなくなりました。代わりに百貨店のおせち料理を購入してたべる習慣となっています。
我が家(妻、子供二人)でも今年初めて百貨店のおせち料理を購入して食べることになりました。
スタイルは時代に合わせて変わってますが、正月のお祝いをするという目的は変わらず、今年もおせち料理をいただきたいと思います。